まだ風が冷たく感じる3月。第一志望の大学に合格した朱莉は、契約した賃貸アパートの手続きのため、藤が丘の不動産会社を訪れていた。
「よく来たわね。一人暮らし楽しみでしょ。あんまり羽目をはずさないようにね」
奥の事務所から、嬉しそうに話しながら女性が出て来た。湯気の出ているコーヒーカップをふたつ持っている。朱莉の向かいに腰を掛けると、カップを置いた。朱莉の持ってきた契約書類を手に取ってパラパラとめくり始める。
「私、両親も兄弟もいなくて2年前から一人暮らしでしたから……」
女性の手が止まった。しまった、暗くなること言っちゃったな。朱莉は慌てて弁解した。
「でも友達もいるし寂しくないです。あ、でも名古屋に来て友達も遠くなっちゃった……」
結局うつむいてしまった朱莉の前で、女性は「そうだ!」と明るい声を上げた。
「今度の水曜日、もし暇だったら付き合ってくれない?」
* * *
地下鉄東山線「東山公園」駅を出て、少し歩いた。
東山動物園の正門で、ベージュのコート姿の女性が手を振っているのが見えて駆け寄った。
「遥さん、お待たせしましたぁ」
「あなたの賃貸屋さん」営業主任の仲嶋遥(なかじまはるか)は笑顔で応えた。
「私も今来たとこ。さ、いこ」
遥は既に二人分のチケットを買っていて、朱莉に渡してくれた。正門をくぐると、モノレール乗り場が見えた。動物の姿はまだ見えない。
「朱莉ちゃん、今日はありがとう。私さ、この動物園好きなんだよね。先月も彼氏と来たばかりなの。有名なイケメンゴリラ知ってる?」
「えー、知らないです。イケメンに早く会いたい!」
ほどなくしてサイ舎が見えてきた。2人は話しながら、動物を見て回った。
動物園って小学生以来かも。まだお父さんが元気で、疲れたって言っておんぶしてもらったっけ。
朱莉は昔を思い出しながら、のんびりと寝ているコアラを眺めた。
コアラ舎を出ると、遥が足を止めて、正面に見える池のボート乗り場を指さした。
「朱莉ちゃん、彼氏ができてもあのボートは乗らないようにね」
「彼氏と……ですか?」
「うん、カップルで乗ると別れるって有名だから。私もね、先月一緒に乗ったんだけど、別れるかもしれない……」
突然の話に、朱莉は言葉が出てこなかった。
「結婚を前提に付き合っているって父親に話したの。うちの不動産会社、父親が経営していてね。結婚するから辞めたいって言ったら、それなら結婚相手がウチの会社を継ぐんだよな?って」
……大人の恋愛話だ。無言で頷く朱莉に、遥は薄く笑って話を続けた。
「彼氏は大手の商社マンなんだけどね、それとなく不動産の仕事をしてみたいとか思ったことある? って聞いたら『今の仕事を辞める気ないよ』ってあっさり。別れるか、父親と縁を切って家を飛び出すか悩んでるの。朱莉ちゃん、どう思う?」
黙り込んでしまった朱莉に、遥はハッとしたような表情で謝った。
「ゴメン、お客様である朱莉ちゃんにこんな話したらダメだよね」
* * *
「私だったら……、自分が継ぎます」
朱莉はボート乗り場を見つめたままはっきりと言った。
遥を見ると、朱莉の言葉に目を丸くしている。別れるか家を飛び出すかで悩んでるのに、「自分が継ぎます」は変だよね。
「あ、すみません。私だったらです」
朱莉は焦って顔の前で手を振ったが、遥はそんな朱莉を見て「ふふ、そうね」と笑った。
「確かにその選択肢もあっていいわよね、うん。この仕事好きだし」
良かった。変なこと言っちゃったけど怒ってはないみたい。
「遥さんは不動産のお仕事好きなのに、なんで辞めたいんですか?」
少し首を傾げる遥。答えを整理しているように見える。
「不動産の仕事って、うちに限らず水曜日休みが多いの。週末や祝日もほぼ休めない。家族で旅行に行った記憶はないし、遊びに行ったとしても近場ばかり。小学生の頃は友達が旅行に行った話を聞いて羨ましくて仕方なかった。私ね、結婚したら子供が欲しいの。家族でたくさん思い出を作りたいんだ」
不動産屋さんってそんなに休みとれないんだ。それはちょっと寂しいな。でも、好きな仕事であるなら大切にしたい。
「あの、水曜日休みにこだわらず日曜日休みにするとかは? せめて月に一回だけでも日曜日休みにするのはダメですか? それに、一人で頑張らなくてもいいんじゃないかと思います。交代で休むとか。自分が幸せじゃないのに、お客様も家族も幸せにできるのかな。すみません、不動産業界のこと何も知らないのに、無茶苦茶言ってるかも……」
朱莉はだんだん自信が無くなってきて、最後は消え入りそうな声になった。
遥は朱莉の目をじっと見ている。そして、力強く首を縦に振った。
「私が社長になったら、私が決めればいいんだよね。ちゃんと結果を出せば文句ないはず、社長として認めてもらえるように頑張ってみようかな。よし! とりあえず、来月から月に一回日曜日の休みを入れられないか父親に話してみる!」
あれ? もしかして解決した? 遥さん、本当はお父さんのことも彼氏さんと同じくらい大切なんだろうな。でも、正直遥さんに社長は無理かも。だって……。
「どうしたの、朱莉ちゃん。難しい顔して」
「えっと、怒らないで聞いてください。私、不動産会社の社長って黒塗りのベンツに乗って、パンチパーマで白いスーツ、紫色のシャツに手には木刀っていうイメージなんですけど。間違ってますか?」
「……間違ってるわね」
* * *
一年後。
大学二年生になった朱莉は、披露宴会場のテーブルに座り、新郎新婦の登場を待っていた。
プロジェクターには、バラード調の曲に合わせて新郎新婦の生い立ちムービーが映し出されている。
あ、あの写真……。
ホッキョクグマを背に、ピースをする父娘の姿。優しく微笑む父親に抱かれて嬉しそうな少女。
サル、ゾウ、コアラ……年代は違うが動物園での写真が多い。見覚えある景色、東山動物園だ。
遥さんが東山動物園を好きな理由って、家族の思い出がたくさんあるから? 遥さんのお父さんも、近場でも思い出をたくさん作ろうと一生懸命だったのかも。
鐘が鳴る。
晴天に恵まれたガーデンで、皆に祝福され満面の笑みの遥。「あなたの賃貸屋さん」取締役となったばかりで、来年には社長職に就く。従業員も増え、「お客様と同じぐらい従業員にも充実した毎日を」を掲げている。
キレイ。
朱莉はドレス姿の遥に見とれた。
遥は恥ずかしがりながらも、父親と二人で写真を撮っている。
カメラに向かってピースを作る二人は、昔の写真と変わりのない笑顔だ。
楽しい時間も終盤に差し掛かった。皆に背を向けた遥が、司会者の合図で力いっぱいブーケを投げる。
「行くよ!」
遥の声に乗ってブーケは青空の下で弧を描がき、朱莉のもとへと舞った。
―朱莉メモ―
「ボートに乗ると別れる」は都市伝説。ホッキョクグマのサスカッチは令和2年5月6日に永眠。思い出をありがとう。
END
東本朱莉(ひがしもとあかり)(三浦朱莉)……大手不動産会社の営業ウーマンだったが、上司に回し蹴りをかましたことで、グループ会社へ転籍になった。そこで出会った三浦とともに会社の不正を内部告発した。現在は三浦不動産の営業スタッフ。すぐ泣く。語尾を伸ばす癖がある。
※本投稿はフィクションです。実在の人物や団体などとは少しだけしか関係ありません。