伝説の超ナゴヤ人に訊く

伝説の超ナゴヤ人に訊く!【東区高岳】「文化のみち 二葉館」で日本初の女優・川上貞奴の人生と偉業に触れる|福沢桃介|川上音二郎

地元の住み心地は、地元の主に訊くのが一番!穏やかな心を持ちながら、激しい地元愛によって目覚めた名古屋最強の伝承者。それが〝超ナゴヤ人〟だ!
『伝説の超ナゴヤ人に訊く』第14回は【東区高岳】です。

文化のみち二葉館と日本の女優第一号 川上貞奴

「名古屋城」から「徳川園」までをつなぐ「文化のみち」にある大正ロマンの趣深い和洋折衷の館があります。
『文化のみち二葉館 旧川上貞奴邸』は、日本の女優第一号といわれる川上貞奴と、電力王と言われた福沢桃介が共に暮らした家を名古屋市が移築・復元したもの。
創建は大正9年です。

▲移築復元にあたっては、創建当時のものはできるだけ保管材を使用し、当時の材料や技術が再現されています。

今回は、昨年7月に取材した館長の緒方さんへのインタビューをもとに、川上貞奴という女性にフォーカスしてご紹介します。

川上貞奴とは

▲川上貞奴 資料提供:文化のみち二葉館【名古屋市旧川上貞奴邸】

ー川上貞奴について教えてください。

日本初の女優として知られる女性です。

元々は芸妓として政財界の要人に贔屓にされていましたが、現代劇の創始者といわれる川上音二郎と結婚後、女優としてのキャリアを確立します。アメリカやヨーロッパで巡業し、パリ万博では「マダムサダヤッコ」として人気を博しました。
夫亡き後は女優を引退し、海外向けの絹を生産販売する会社を経営したり、初恋の相手であった福沢桃介が手がける電力事業にも協力しました。

信仰心が深かった貞奴は、晩年岐阜県各務原市に貞照寺を建立し、自らの菩提寺としました。

幼少期〜芸妓時代

ー貞奴はもともと芸妓だったのですね。初恋の福沢桃介との出会いはその頃ですか?

貞奴は、もともと裕福な両替商の娘でした。

ところが、幼少期に父親の事業が傾いたことで、7歳で日本橋の稽古置屋『浜田屋』の養女となります。そこから芸妓の道に進むことになりました。

桃介(当時は岩崎桃介)との出会いは芸妓の見習い中のこと。野犬の群れに襲われたところを助けられたそうです。

2人は互いに惹かれあったものの、慶應義塾の学生であった桃介に福沢諭吉の次女との縁談を条件にアメリカ留学の話が持ち上がりました。貞奴は泣く泣く身を引き、それぞれ別々の人生を歩むことになりました。

それ以降、貞奴は芸の精進に勤しみ、芸妓として売れっ子になりました。
貞奴の「奴」とは芸者の名跡で、芸者の世界でも美貌や芸の技術だけでなくしっかりとした後ろ盾のある芸者にしか与えられない名前です。

日舞の芸に秀で、才色兼備でもあった貞奴は、伊藤博文をはじめとした政界・財界人に贔屓にされました。伊藤博文から株も教わったそうです。

宴席では政府の高官や行商の話を聞く機会がありますから、株を覚えてからは相当儲かっていたようですね。

気が強い女性で、気に入らないお座敷があるとプイッと出て行ってしまったとか。そういうつれないところも、当時の殿方にはたまらない魅力だったんでしょうね。

川上音二郎との結婚〜日本の女優第1号とジャポニズム旋風

ー貞奴が結婚した川上音二郎はどんな人物だったのでしょうか。

貞奴の夫は川上音次郎という役者です。彼は自由民権運動の活動家でもありました。現代劇の創始者といわれる人物で、貞奴のキャリアにとって最も重要な存在でもあります。結婚後、貞奴は芸妓を引退しました。

音二郎は明治期にアメリカで巡業を行いました。貞奴はそれに同行し、舞台で日舞と演技を披露したそうです。それが評判を呼び、大成功を収めました。

1900年のパリ万博では、会場の一角にあったロイ・フラー劇場で公演を行いました。
当時パリでは、マネやモネ、ゴッホなどが描く「ジャポニズム」が流行していました。初めは物珍しさで見に来た人たちも、貞奴の美貌や妖艶な演技、オリエンタルな世界観にたちまち魅了されてしまったんですね。

ドビュッシーやピカソをはじめとした芸術家が彼女の演技を絶賛し、フランス政府は「オフィシェ・ダ・アカデミー勲章」を授与しました。「ヤッコ」という名前の香水や「ヤッコドレス」が売り出されるほどのジャポニズム旋風を巻き起こしました。

▲舞台衣装を着た川上貞奴 資料提供:文化のみち二葉館【名古屋市旧川上貞奴邸】

ー貞奴の女優のキャリアは欧米で花開いたんですね。

そうですね。
その頃の日本は、一般的に役者という職業が格下に見られていた時代。また、欧米では男役は男性、女役は女性が演じるのが普通でしたが、日本では歌舞伎のように女役も男性が演じる時代だったんです。

そんな時代に、貞奴は初めて女性として舞台に立ちました。それどころか、欧米でも高く評価され、ジャポニズム旋風を牽引する存在となったんです。今では多くの人が憧れる「女優」という職業の地位や名誉を確立した人物ですね。

▲ミュラーが描いた川上貞奴のポスター(レプリカ)

このポスターはパリ万博のポスターで、ミュラーというドイツの画家が描いたものです。こちらはレプリカで、オリジナルは京都にあります。(レプリカですが、ほぼ同じですね。)
実はピカソも貞奴のデッサンを描いているんですよ。

▲貞奴が着ていた舞台衣装(文化のみち二葉館にあるものはレプリカで、本物は貞照寺にある)

「川上絹布」の女社長

ー女社長という一面もあったのですよね。

音二郎の死後、七回忌の法要を済ませると貞奴は女優を引退します。
その後、現在の上飯田付近に輸出向けの高級絹を生産販売する会社「川上絹布」を設立しました。

工場では、40〜50人の若い女工が寮生活をしながら働いていたそうです。紺のセーラー服という女学生風の制服で、昼休みにはテニスをしたり、工場にプールもあったそうです。
寮では、夜にはお茶やお花、和裁などの習い事ができたそうで、今でいう福利厚生がとても充実した会社ですよね。

当時は女工といえば厳しい労働環境で酷使されていた時代。非常に先進的な経営だったのだと思います。

生産された絹製品は品質が高く、フランスなど海外へ輸出されていました。

福沢桃介との再会と二葉御殿

▲福沢桃介と川上貞奴

ー福沢桃介と再会してからは、どのような関係だったのでしょうか。

大正2年、福沢桃介は名古屋電燈株式会社の取締役に就任します。そこで木曽川の電力開発事業に携わることになったのです。

当時技術力に乏しかった日本では、発電所やダム建設のために西洋の技術者を呼び寄せる必要がありました。また、政財界との交渉もあります。そこで、西洋の事情や言葉に明るく、海外や政財界の要人のおもてなしができる人材として、旧知の仲であった貞奴に白羽の矢が立ったというわけです。

貞奴と桃介は夫婦ではありません。
妻以外の女性と公然と暮らしていたわけですから、当時の新聞には随分と面白おかしく書かれていますね。

2人が暮らした「二葉御殿」は、さまざまな交渉の足場となるサロンとして使われました。政財界の要人や文化人に対し、毎日和食・洋食・中華などさまざまな料理や珍しいお菓子が振る舞われ、貞奴はその手配にもたずさわっていたそうです。

その傍らで自らの会社も経営していたわけですから、きっと目の回るような忙しさだったでしょうね。

貞奴のサポートもあり、木曽川には7ヶ所の発電所と大井ダムができました。(日本初のダム式水力発電所)
桃介にとって貞奴は、プライベートでも、ビジネスパートナーとしても、これ以上ない素晴らしい女性だったと思います。

東洋と西洋の文化が交わる『文化のみち二葉館』の魅力

「二葉御殿」が創建されたのは大正9年のこと。

電力会社の社長が暮らす家でもあるため、建物内部には当時としては最新鋭の電気装備が施されています。

また、装飾の面ではステンドグラスや螺旋階段など、貞奴の好みが至る所に取り入れられました。
「二葉御殿」があった土地から直線距離500mほどの場所に移築された『文化のみち二葉館』では、大正ロマンの趣を実際に目で見て感じることができます。

印象的な外観

▲まるでジブリの世界から飛び出してきたようなオレンジの屋根が印象的な外観。

ーオレンジの屋根がとても印象的ですね。大正9年の創建ということですが、日本はまだまだ貧しかった時代。当時としては相当ハイカラな建物だったのでしょうか。

桃介と貞奴が暮らしたこの家は、元は「東二葉町」という場所にありました。(現在の白壁3丁目付近)当時は「二葉御殿」と呼ばれていたそうで、それが「二葉館」の由来です。

「東二葉町」は、熱田台地の北側の端に位置しています。ですから、周りは田んぼだらけなんです。さらに街灯もない時代ですから、夜は真っ暗です。

後に「電力王」と呼ばれた桃介が、木曽川の電力開発における交渉のサロンとして使うことを想定して建てられていますから、庭もライトアップされていたようです。
周囲は全部真っ暗ですから、夜は相当目立ったでしょうね。田んぼの中に突然お城が建ったようなイメージかもしれません。

▲創建当時の貞奴邸北側からの風景。中央上部に貞奴邸と蔵が描かれている。周りは田んぼだらけで、街灯もない時代に明るくライトアップされていた「二葉御殿」の存在感が伺える。
▲玄関前のポーチ部分も存在感たっぷり
▲建物南面から。南面に窓が多く採光に優れた造り。
▲駐車場側から撮影。正面から見ると洋館、裏側は和風建築となっている。
▲当時の最新鋭の電力設備が搭載。各部屋には呼び鈴があり、女中の控え室前でどの部屋から呼び出されているかわかる仕組み。螺旋階段にはステンドグラスのランプがあしらわれている。

オリエンタルな趣が印象的なステンドグラス

ー「文化のみち二葉館」といえば、なんと言っても大広間のステンドグラスが有名ですよね。

このステンドグラスは、福沢桃介の妹の旦那さん、つまり義理の弟である杉浦非水という方のデザインだったそうです。杉浦非水はグラフィックデザイナーの先駆けの人物で、当時は三越のグラフィックなどもを担当していました。

直接触っていただいても大丈夫なので、大正時代の暮らしに触れて、ぜひ直接貞奴のパワーを受け取ってください。

▲大広間のステンドグラスは福沢桃介の義弟であった杉浦非水によるデザイン。

ー遠くから見ると非常に繊細に見えますが、実際に近づいて触ってみると、意外としっかりした力強い質感ですね。

そうですよね。
オリジナルを含むステンドグラスは、大広間だけでなく食堂や2階など4カ所にあります。

ステンドグラスというと、イメージとしてはキリスト教の「教会」を思い浮かべる方が多いと思いますが、ここに描かれているのは日本の風景やオリエンタルなデザインです。この頃の洋館は随所に和の要素があるのが特徴で、とても印象的ですよね。

明治の中期にドイツやアメリカに渡って修行した日本の職人が帰国して作り始めました。このステンドグラスはその職人の工房で作られた作品で、大変貴重なものなんです。

100年ちょっと前のものですから、全てが完璧に揃っているわけではなく、写真をもとにしたレプリカもあります。ステンドグラスは鉛でできている部分もあるので、戦時中に供出されたりもしたかもしれません。このステンドグラスは疎開させたこともあり、一部は流出してしまったんですね。面白いことに、数年前に名古屋の古物商から一部が発掘されたりもしています。

▲ダイニングルームのステンドグラスは山の風景
▲寝室のステンドグラスは室内窓。清流と紅葉の構図に可愛らしい色使いのデザイン。
▲大広間の螺旋階段から降りてくる貞奴を想像・・・
▲螺旋階段を上から撮ってみた

螺旋階段は移築された際に復元されたものです。実際にはもう少し幅が狭く、1周半くらいしていたそうです。

▲2階にある小さな仏間の天井は屋久杉の網代(アジロ)でしつらえられています。

貞奴は不動明王を深く信仰していて、人生の困難を乗り越える支えとしていました。晩年、岐阜県各務原市に不動尊信仰の集大成として「成田山貞照寺」を建立。そこを自らの菩提寺としました。

▲優しく日光が差し込む壁付の円形ソファ。館内のファブリックは統一の布で張り替えてあるものの、スプリングは当時のもの。思ったよりもふかふかで、深く腰掛けるとしっかりと沈む。寄せ木貼りのフローリングにも粋なデザインが施されている。
▲2階の旧支那室。大正から昭和初期に住まいの一部に中国風の様式を取り入れることが流行していたそう。移築前は高台にあったため名古屋城や御岳を一望できる見晴らしの良い部屋だったと思われる。

取材後記

昨年館長の緒方さんに伺ったお話に感銘を受け、いつか「伝説の超ナゴヤ人に訊く!」で川上貞奴を紹介したいと思っていました。

川上音二郎と福沢桃介、2人の男性のパートナーとして、寄り添いながら自らも大きく活躍した川上貞奴。

良き伴侶というだけでなく、女性が社会で活躍することがまだまだ難しかった時代に、「女優」という職業を確立させたり、女社長として事業を成功させるという自立した女性の一面もあります。

明治から大正という日本の黎明期に、「文化」と「事業」という2つの軸で多大な功績を残した川上貞奴。まさに「伝説の超ナゴヤ人」と呼ぶにふさわしい女性です。

施設概要

住所:名古屋市東区橦木町3丁目23番地
TEL:052-936-3836
開館時間:10:00~17:00
入館料:大人200円(中学生以下無料)
駐車場:10台(1回300円)

ABOUT ME
アバター画像
veronica
名古屋在住の不動産ライター。方向音痴の宅建士。大学卒業後不動産仲介営業を経験し、結婚で名古屋に転居。現在はポータルサイトで不動産コラムの執筆や企画などを中心に活動中。自称和装が似合うマダム。高校生と小学生のママで、星野源が好きです。