地元の住み心地は、地元の主に訊くのが一番!穏やかな心を持ちながら、激しい地元愛によって目覚めた名古屋最強の伝承者。それが〝超ナゴヤ人〟だ!『伝説の超ナゴヤ人に訊く』第10回は【昭和区天白区八事】です。
戦後から八事の街を見守ってきた名古屋コーチンスイーツ専門店『菓宗庵』社長 大橋康博さん
その街で長年お店を経営するオーナーへのインタビューを通じて街の魅力を深掘りする企画「伝説の超ナゴヤ人」シリーズ、今回が第10回となりました!
記念すべき第10回は、市内屈指の高級住宅地であり、文教地区でもある【昭和区天白区八事】。
飯田街道沿い、八事交差点すぐの場所で昭和21年から営業を続ける老舗和菓子店『菓宗庵』。取締役社長の大橋康博さんにお話を伺いました。
名古屋に引っ越してきて20年弱、ずっと本山〜八事エリアを生活圏とする筆者。
名古屋コーチン卵を使ったスイーツは県外からのお客様の手土産にもちょうどよく、『菓宗庵』さんは日頃からよく利用しています。
戦後から八事の街を見守ってきた老舗和菓子店
ーー『菓宗庵』さんは昭和21年からこの場所でずっと営業されているそうですね。まずはお店の歴史と八事の街の関係を聞かせてください。
はい、うちの店は、父が戦後すぐに八事のこの場所で創業しました。
祖父の代からもともと八事に住んでいたこともあり、商売をするなら立地が大事だという観点で、この場所に決めたのだとか。祖父は戦前、八事のあたりでお墓関連の仕事(石工職人)をしていたんです。しかし、戦後すぐはみんな食べていくだけで精一杯で、お墓を用意するような余裕のある人は少なかったと。そこで父は、人が生きていく上で欠かせない「食べ物」を扱う商売をしようと決めたそうです。ちょうど親類に和菓子店を営んでいる家があったので、そこで教えてもらって開業しました。
当時は名古屋コーチンの卵はまだ市場に流通しておらず、「地域の和菓子店」として普通の和菓子を販売していました。
当時の八事は今と比べればまだまだ田舎でしたが、「名古屋の財界人の別荘地」「八事山興正寺の門前町」「八事霊園がある街」という3つの顔がありました。保養地としての別荘や大規模な墓地ができるくらいですから、栄や名古屋城の城下町のような繁華街ではないものの、名古屋の郊外エリアとして一定程度の人の流れがあったわけです。
時代に翻弄される中で、祖父や父が「どうやって生き残るか」ということを真剣に考えた結果の選択が、今につながっています。
高度経済成長期、さまざまな業態に挑戦
ーーその後、『菓宗庵』さんにはどのようなストーリーがあったのでしょうか?
普通の和菓子屋の場合は、有名店で長年修行してお店を出すことが多いと思いますが、うちの父の場合は親戚の店で短期間の修行で商売を始めました。
しかし、父は社交的で非常に人に好かれる性格だったんです。長年修行を積んだような方にも可愛がっていただき、いろいろなことを教えてもらったり、協力して商品開発や店づくりなどをやってきました。それで、高度経済成長期の時代の波にうまく乗ることができたのかもしれません。
高度経済成長期は「八事」駅が路面電車の終着駅となり、この界隈も非常に発展しました。全国的には喫茶店文化が栄え、うちも2階で喫茶店を始めたんです。この辺りの喫茶店ではうちが3店舗目でした。
同じ頃、洋菓子部門を設立して洋菓子の販売も始めました。昭和43年のことですね。大学キャンパスがあるので学生さんが授業の合間に利用してくれたりして。最初の頃は、それはもう目の回るような忙しさでしたね。
父は、人柄のせいか人脈が豊富で、色々と情報が早かったこともあり、時代の波に乗って色々と挑戦してきました。自宅が店の上(3階)にありましたから、子供の頃からその姿を見てきたし、学生の頃からよく店を手伝わされていましたね(笑)
ですが、そこから10年くらいの間に、八事の交差点を中心に東西南北喫茶店がすごく増えたんです。今はラーメン屋さんが増えましたけど、あのあたりは全部喫茶店でした。それこそ何十軒とね。
そうなれば当然、うちが喫茶店を始めた頃と比べると利用頻度は変わってきます。そのあたりで、ちょうど店長をやってくれていた方が退職されるタイミングも重なり、辞めることにしたんですね。それが昭和55年のことです。喫茶店閉店後の2階部分には、その後、ヤマハの音楽教室が入ったり、まんが喫茶の営業をしたりしました。
喫茶店閉店後もしばらく洋菓子の販売は続けていましたが、平成3年に店舗の改装をした際、和菓子一本に絞ることにしました。というのも、うちの店の売り場面積で和菓子と洋菓子両方を販売すると、どっちつかずの店構えになってしまうんですね。
また、時代性として「洋菓子=海外の有名店で修行したパティシエが作るもの」という認識になっていきました。そこに無理してついていくよりも、もともと得意分野である和菓子に特化しようということになったんです。
店舗名はそれまで「大橋屋」だったのですが、改装を機に和菓子屋っぽい「菓宗庵」という屋号に変更しました。この店名は父がえらく気に入りましてね。店としても、菓子屋として腹が決まったというタイミングだったのかもしれません。
ちなみに、表の看板は父が彫ったものなんですよ。その後、日進店をオープンしました。
名古屋コーチン卵との出会い
ーー名古屋コーチンの卵を使ったスイーツはいつ頃から販売されているのでしょうか?
名古屋コーチンの卵を使ったスイーツは2000年からですね。
これも時代の流れの話になってくるのですが…
その頃からちょうど「お取り寄せ」といって、ネット通販で全国のスイーツを取り寄せるという文化が始まりました。今はすごくメジャーになった「楽天」のショッピングサイトなどが立ち上がってきた頃です。そこで、うちも通販というものをやってみようということになりました。
しかし、通販で全国に物を売るということを考えたときに、今までのような「地域の和菓子屋」では勝てないだろうという話になりました。
全国のお客さんが『菓宗庵』を選ぶ ”理由” が必要になる。
そこで、地元の商材として「名古屋コーチンの卵」に目をつけ、地元の名古屋コーチンの協会に加入することになりました。
ちょうどその頃、名古屋コーチンの協会は立ち上がったばかりでした。戦前から名古屋コーチンの地鶏は有名でしたが、戦後はいわゆる外来種の鶏の方が生産性が良く、養鶏業者さんはブロイラーなどに乗り換えてしまったんです。
それで、体の小さな名古屋コーチンは絶滅に近い状態でした。県の農政科と協会が名古屋コーチンブランドを復活させようと、富山あたりで観賞用の名古屋コーチンを飼っているお宅から鶏を分けてもらったそうです。そこから少しずつ増やして、今の名古屋コーチンブランドがあります。
「名古屋コーチン」の鶏肉がようやく軌道に乗って、次は卵に脚光が当たるという時期と、うちの店が通販に向けて新しい商材を探していたタイミングがたまたま合致して、『菓宗庵』として名古屋コーチンの卵を使ったスイーツを開発することになりました。
それまでもカステラは販売していましたが、普通の卵から名古屋コーチンに置き換えたとき、卵の性質に合わせたアレンジを試行錯誤しました。
ーー普通の卵と名古屋コーチンの卵はどう違うんでしょうか?
色は桜色で、お尻に白い斑点があるものがあります。また、サイズは一般的な卵と比べてやや小ぶりで、卵黄の比率が高いため、コクや卵ならではの味わいが濃いと言われています。
ユッケのように卵黄だけを使う料理もあるくらいですから、やはり全卵で溶いたときに卵黄の比率が高い方が卵独特の風味が強いですね。食べ比べをするとよくわかると思います。
商品を開発していく中で、非常に美味しいカステラができました。これはうちの看板商品になると確信しました。
それまでも全部の商品を自信を持って提供していたのですが、お客様から「一番のおすすめは?」と聞かれて即答できる突出した商品がなかったんです。
「名古屋コーチン卵のスイーツ」という看板商品ができてからは、『菓宗庵』のイチオシとして自信を持っておすすめできるようになりましたね。
その後は、名古屋コーチンの卵の風味を活かしたプリンやワッフルなども開発して、非常にご好評いただいています。
家族経営の歴史
ーー創業時から家族経営でやってこられたということですが、家族経営ならではのエピソードはありますか。
そうですね、自宅が上にありましたから、子供の頃からよく手伝いはしていましたよ(笑)
学生時代は喫茶店のウェイターからレジまで一通りやりました。
経営面では、兄が父の跡を継いでずっと社長をやってきましたが、今は会長職をやっています。私も若い頃からずっと店には携わってきましたが、兄と社長を交代したのは5年ほど前ですね。
親子なので遠慮がないというのもあって、特に兄が通販を始めようとしたときにはぶつかることもありました。
私も父が時代に合わせていろんなことにチャレンジしてきた姿を見てきましたし、事業をやっていれば生き残りをかけて挑戦しようとするのは皆同じなのかなと思います。でも、それよりも親としては心配だったんでしょうね、見たことのない世界だから(笑)
ただ、私たちとしてはその都度しっかり話し合い、できることを着実に進めてきたという実感です。
八事について
時代と共に変化してきた「八事」
ーーお店のお客様は近隣の方が中心ですか?
そうですね。地元の方が中心ではありますが、中には遠方から「名古屋コーチンの卵を使ってると聞いて」と買いに来てくれる方もいます。
ーー八事という街の変遷については、どのような印象をお持ちですか?
八事が街として一番賑やかだったのは、「八事」駅が鶴舞線の終点だった頃です。その頃は高度経済成長期からバブル直前くらいまででしょうか。
それ以降は繁華街は栄と名駅に集中して、この辺りは学生街と、住宅街のなかでちょっとした日常の買い物をする駅という位置付けになっていきましたね。
以前は「八事」駅より東はほぼ農村部でしたが、地下鉄鶴舞線が「赤池」駅まで伸びて、その沿線にも商店街ができました。
私にとっての八事は第一に「学生の街」です。次に、一本奥に入ると大きなお屋敷や高級マンションがたくさんある「高級住宅街」でもありますね。この2つの側面がいい感じで調和しているんじゃないでしょうか。
ただ、今は大学のそばに地下鉄の出入口が出来たので、駅周辺を歩く学生さんもだいぶ減りました。また、インターネットが発達して、授業の休講もネットでわかるようになりました。学生さんにとって「どこか近所のお店で90分時間を潰さなくちゃ」という時代では無くなってしまったんです。
住民の方にとっては、ゾロゾロ歩く大量の学生さんが減ったのは過ごしやすくなったのかもしれませんが、商売人としては少し寂しいところですね。
おすすめスポット『東寿司』
ーーご近所でおすすめのお店があったら教えてください。
うちの2軒隣にある『東寿司』さんですね。うちと同じくらい長く商売していらっしゃって、うちの建物よりももう少し古いんじゃないかな。
これだけ便利な駅なので、このあたりはお店の入れ替わりが頻繁にあります。
八事周辺でうちより長いか、同じくらい長くやっているのは『東寿司』さんと『八勝館』くらいになってしまいました。これだけお店が入れ替わる街で、長い間お客さんに愛されているのにはそれなりの理由があると思います。『東寿司』さんは、やはり味・価格・サービスのバランスが取れているからでしょうね。いつ行っても当たり前に美味しい寿司が食べられる。
商売というものは流行りに乗っかったり、儲けようという気持ちだけでは長続きしません。やはり信念やお客さんを思う気持ちがあってこそだと思います。
取材後記
戦後の混乱期、高度経済成長期、バブル経済、バブル崩壊・・・時代の荒波を乗り越えながら、八事という街の駅前で77年間お店を守ってきた大橋さん一家。
親子三代、時代に合わせてさまざまなチャレンジを続けてきた大橋さんファミリーの姿勢が、今の『菓宗庵』に繋がっていました。
名古屋コーチンやその卵にもこんな紆余曲折の歴史があったとは。新たな発見と共に、八事という街の歴史に思いを馳せた取材でした。
店舗概要
住所:名古屋市昭和区広路町石坂36
TEL:052-831-2488
営業時間:9:00ー18:30
定休日:年中無休
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