ナゴヤ出身の偉人を知れば、きっと、もっとナゴヤが好きになる――。
ナゴヤに生まれ、ナゴヤを超えて世界に挑んだ歴史上の偉人たちにスポットを当てた新企画。それも〝超ナゴヤ人〟だ!
『伝説の超ナゴヤ偉人伝』第2回は名古屋市出身でソニーの創業者の1人として知られる、盛田昭夫さんを紹介します。
盛田昭夫
盛田昭夫は、日本を代表する実業家であり、ソニー株式会社の共同創業者として知られています。経済界だけでなく文化人との交流も多く、その経営理念は後の多くの起業家に影響を与えました。アメリカのタイム誌でも紹介されるなど、日本の経済史において最も重要な人物の1人です。
今回は、名古屋出身の盛田昭夫について、彼の残したビジネス哲学の言葉と共にご紹介します。
盛田昭夫は1921年に愛知県名古屋市白壁町で生まれました。
白壁町は、名古屋市内でも独特の歴史と文化を持つエリア。名古屋城の北東に位置し、江戸時代には武士の居住地として栄えた地域です。戦前は緑豊かな庭園や伝統的な建築様式とモダンな洋風建築をミックスした「和洋折衷」「大正モダン」の瀟洒なデザインの住宅が建ち並んでいたようです。
また、経済的にも重要な地域であり、市内の多くの有力者や商人が住んでいたため、文化的な中心地としても発展しました。
盛田家は常滑市で代々続く造り酒屋として地域社会に貢献していました。父の久左衛門は盛田家第14代当主であり、母の収子は金融界や政界に影響力のある家系の出身。
こうした背景は、のちに開花するビジネス感覚や有力者との人脈形成、類稀なリーダーシップに大きな影響を与えたと考えられます。
学生時代の盛田は科学技術に対する興味を深め、旧制愛知県第一中学校(現在は旭丘高校)、第八高等学校(現在は名古屋市立大学)を経て、大阪帝国大学理学部物理学科へ進みます。彼の物理学への情熱は、後のソニーでの技術革新に直結しました。
彼が大阪大学を卒業したのは第二次世界大戦中の1944年。国家総動員体制が取られていた時代です。戦時下ということもあり、卒業後の盛田は日本海軍に技術士官として勤務することになります。
戦争と井深大との出会い
第二次世界大戦中、盛田は海軍技術中尉として勤務し、爆弾開発に従事しました。この時期にのちのビジネスパートナーとなる井深大と出会います。
井深大は、盛田昭夫とともに日本のエレクトロニクス業界に革命をもたらした人物。
早稲田大学理工学部で学び、在学中に光通信の実験に成功しました。その成果は「走るネオン」と名付けられ、卒業後のパリ万博で金賞を受賞し、新聞で「天才的発明家」として取り上げられたほどです。
卒業後、日本測定器で軍需電子機器の研究をしていた頃に、海軍技術中尉だった盛田と出会いました。
戦後、2人は1946年に東京通信工業株式会社(現在のソニー株式会社)を設立。ふたりはそれぞれの強みを活かし、井深は技術開発、盛田はビジネス戦略と人脈を通じた資金調達を担当しました。
戦後日本の経済的困難に直面した盛田には、日本の再建に貢献したいという強い意志がありました。日本の戦後復興への強い想いが、ソニーの技術革新と成長の大きな糧となったのです。
利益を得ることは重要だが、将来現金化できる資産を積み上げるために投資することも重要だ。
盛田の経営哲学は、短期的な利益よりも長期的な成長と持続可能性を重視するというもの。研究開発への継続的な投資が不可欠とするスタンスは、井深の技術開発力を強く信頼していたからでしょう。
一方、井深大は、「技術は多くの人たちに利用されてこそ、技術である」という考えの持ち主でした。
管理職の重要な役割は、エンジニアに常に目標を与えることだ。
盛田昭夫の経営は「参加型リーダーシップ」の典型とされています。メンバーの自主性や人間関係を重んじ、対等の人間として尊重するスタイルです。井深大のアイデアを最大限に活かした製品作りの支援とマーケティングが行われました。
ソニーの最初の大きな成功は、1950年に発売された日本初のテープレコーダー。この製品は教育市場で人気となり、ソニーの名を広めるきっかけとなりました。
誰にでも扱いやすい電気製品は、一般家庭にエレクトロニクスを普及させるきっかけとなったのです。
創業期のソニーと家族の支援
日本の経営者にとって最も重要な使命は、従業員との健全な関係を築き、企業内に家族のような感情を醸成することです。
創業期のソニーは資金調達に苦労したエピソードがも多く、盛田は家族の支援も受けていました。例えば、創業期の社員の給与を実家の盛田酒造から支払っていたり、盛田家の一族や縁故者がソニーの株を大量に購入して事業を支えたことも知られています。家族との絆や伝統を重んじる姿勢は、ソニーの企業文化にも反映されています。
また、盛田家は地域社会やビジネス界において広範なネットワークを持っていました。母方の親戚には、敷島製パンの創業家や三省堂の創業家・亀井家があり、これらの関係が彼のビジネス感覚や人脈形成に影響を与えたと言われています。また、盛田は三省堂創業家の亀井良子さんと結婚しています。
名古屋出身という共通の背景を持つ人々との交流は、ビジネスだけでなく、個人的な生活においても大きな役割を果たしていたことでしょう。
まったく違う知識や考えを持った人と、まず対話できることこそ大事だ。
盛田は多くの著名人や文化人との交流があり、経済界だけでなく文化界にも影響を与えました。
作家の石原慎太郎氏とは共著で『「NO」と言える日本──新日米関係の方策』を発表し、ミリオンセラーに。デーヴィット・ロックフェラー氏や松下幸之助氏との共著もあります。
『学歴不要論』『新実力主義』『MADE IN JAPAN』などの著書を通じて、自社だけでなく日本全体の未来に向けて盛田が考えるヴィジョンを発信し続けました。
グローバル市場への進出と『Made in Japan』ブランドの確立
テープレコーダーの次にヒットしたのは、1955年に開発された日本初のトランジスタラジオ「TR-55」でした。前年にアメリカでトランジスタの特許を持つ会社とライセンス契約を結び生産された小型で高性能なラジオは、家庭用電子機器の普及に大きく貢献しました。
ソニーのマーケティングの特徴は、井深がリードする革新的な製品開発力をもとに、盛田が市場のニーズを的確に捉えて製品化すること、さらにそれを国際市場へ積極的に展開していくというものでした。
私たちは世界市場をターゲットにしている。ローカルな成功にとどまってはいけない。
盛田は「世界のセールスマン」とも呼ばれ、早くから国際市場の重要性を認識し、ソニーをグローバル企業として成長させることに注力しました。
1950年代からアメリカでの販売網を築き、1960年にはソニー・コーポレーション・オブアメリカを設立。これがソニーのグローバル展開の礎となります。1961年にはニューヨーク証券取引所に日本企業として初めて上場し、世界的な認知度を高めました。
盛田は「信用」を重視し、直接的な顧客との関係構築に重点を置いたと言われています。商社を活用して世界にアクセスするのが一般的だった時代に、自社の販売ネットワークを確立。自ら世界中を飛び回ってビジネスネットワークを構築したのです。
盛田は自らアメリカ式の経営を学び、アメリカ人の文化や風習にも精通していました。文化の異なる海外のビジネスパートナーとの関係構築において、相手国の文化を尊重する姿勢を示すことで信頼を獲得していったのです。
ずば抜けた国際感覚と相手の文化を理解し尊重する謙虚な姿勢。当たり前のようで難しい些細なことの積み重ねが、ソニーのグローバルな成功の秘訣と言えるかもしれません。
我が社のポリシーは、消費者がどんな製品を望んでいるかを調査して、それに合わせて製品を作るのでなく、新しい製品を作ることで彼らをリードすることにある。
1979年に発売された「ウォークマン」は、ソニーのイノベーションスピリッツの象徴的存在です。
音楽を手軽に持ち歩くことができるポータブル音楽プレイヤーは全世界で大ヒットし、Appleの創業者であるスティーヴジョブスも大きく影響されているそうです。
ウォークマンの成功はソニーのブランドをさらに強固なものにしました。
かつて「安かろう、悪かろう」と言われた日本製品。
盛田はそれを1から未開拓のアメリカに売り込み、技術力・品質の高さで信頼を獲得して大成功を納めました。ソニーの成功により、『Made in Japan』のブランド力や信頼性は盤石なものとなったのです。
盛田は1999年のタイム誌「今世紀に重要だった100人」の一人に選ばれ、その功績は国際的にも認められました。
まとめ
名古屋発の世界的な企業といえば「トヨタ自動車」を想起する人も多いかもしれません。
現場主義・品質第一主義に加えて「カイゼン」という品質向上メソッドを構築したトヨタ自動車は、言わずと知れた世界的企業です。
一方、盛田昭夫は早期からアメリカ式の経営を取り入れ、その経営スタイルは市場との対話を重視したものでした。盛田がリードしたマーケティングや商品開発、グローバルな視点、信用を重んじる独自の営業スタイルで、ソニーは世界的ブランドへと成長したのです。
盛田昭夫の生涯と業績は、多くのビジネスリーダーにとって永続的なインスピレーションであり続けています。
名古屋で培われた価値観と地域との深い繋がりが盛田のビジネス哲学の土台となっています。それがやがて日本の経済史を代表するような壮大な物語に繋がったと思うと、胸が熱くなりますね。
以上、第2回「伝説の超ナゴヤ偉人伝」でした。
3回目以降は不定期更新となりますが、これからも名古屋の偉人をご紹介していきたいと思います。